新自由主義者=非国民という思考(2)

 話は変な方向にそれてしまったが、経済合理性の対象は国家やその政府にも及ぶ。社会の仕組みを成立させるために国が行っているサービス、インフラ整備事業も、新自由主義者にしてみれば不要であるどころか害をなすもの、いわば不快なメタボのようなものになり、「民間にできることは民間に」の合言葉のもと合理化が進められる。新自由主義にかぶれた人間はいう。「教育は私立学校でできる。郵送は宅急便だってできる。警察事業は警備会社や探偵でもできる。軍事事業だってそういうことを専門とする会社ができる。健康保険だって生命保険会社ができる。」とそれ自体は正しい。基本的に国家や地方自治体がやっていることで民間にできないことは、ほとんどないに等しい。しかし忘れてはいけないことがある。新自由主義者は「できる」といっているだけであって、「する」とは一言もいってはいないということである。「できる」と「する」の間には大きな差が存在する。「私は銃を撃つことができる」ことが、「私は銃を撃つ」ということとは全然違うということが明白なように、「民間でもできる」ということは「民間がする」ということにイコールではない。民間がしなければその間隙にいる人たちは、なんらサービスや福祉を受けることもできず、見捨てられるだけのことである。「努力が足りない」「自己責任」の名のもとに。(次に続く)