「自分らしさ」という虚構

 私が在籍していたドイツ文学なんかと違い、心理学は常に人気が高い。今の心理学の人気を支えるものの一つとして「自分探し」ブームがあげられるだろう。本当の自分とはなんなのか、自分が本当に望んでいるのか、自分らしさとはなんなのか、自分が本当にやりたいことは何なのかを探求することが巷ではやってる(もちろん心理学がそういったものだけを対象としたものではないことを知ってはいる)。村上龍の「13歳のハローワーク」もそれにうまく便乗したものといえよう。
 しかしながら思うにこういった「自分」は他者の存在を前提としない、ひどい場合は他者の存在を無視、拒絶したニセモノの、弱者の「自分」でしかないのではないだろうか。フリーターたちがいうのところの「自分が本当にしたいこと」で使われる自分というものはたいていの場合そういった「自分」なのだろう。むろんそうでないのもいるのだろうけど。真の自分や自分らしさとは他者と共有可能な型の習得を通しているうちに、やがて自分独自の型やスタイルを築き上げるという形で作り上げていくものでないだろうか。他者との共有可能なものの共有が共同体を生み出し、そしてその共同体の中で自己は個人として生きるのである。「自分」といえるもののうちどこまでが自分本来のものか、どこまでが他人から影響をうけたものかなんてのは本来わからないものである。それにもかかわらず自分本来のもの、自分らしさだけに固執していけば、いずれは他者との交流を遮断し、他者との共有を放棄していき、コミュニケーション能力を低下させ、社会性を喪失していくのはある意味当然のことだろう(こうなってしまったケースのひとつとして中二病があげられるのかもしれない)。そして行き着く先は共同体の崩壊と権力による一元的、統制的な管理でしかない。