『サヨナラ、学校化社会』を読む

okagou2005-05-24

 上野千鶴子氏の『サヨナラ、学校化社会』(太郎次郎社)をとある人に薦められて読んだのだがその感想について書きたい。
 正直いって第一の印象は「象牙の塔」「白い巨塔」の人間の知ったかぶりにすぎないと思わざるをえないもので正直辟易させられた。学校のことしか知らない人間が社会について語るとこうなるものなのかなと苦笑せざるをえなかった。
 ただ上野氏の日本の大学院についての記述には感心した。
 上野氏によると、大学院に体現される延長された教育期間は、エリート競争から落ちこぼれた連中に対して自分が二流であることを悟らせるために必要な時間だという。それと同時に競争に敗れた二流エリートを大学院という場所に囲い込んで、その角を矯めさせ、社会にとって人畜無害なものにしてしまうためにあるという。
 確かに歴史的にみても、エリート競争に敗れた連中というのはろくなことをしなかった。上野氏が指摘する通りオウム信者もそうだったが、戦前に満州国の建国を目指した高学歴失業者や、ナチスに参加した職のない哲学博士(アカデミック・ルンペン・プロレタリアートとでもいうべき連中)たちもそうだった(ドイツの事情についてはピエール・ブルデューの『ハイデガーの政治的存在論』を参照)。今でも某松○○経塾をでた二流エリートの連中がどれだけこの国の政治を変な方向に追いやっていることか
 社会的にみれは、こうした二流エリートが危険な存在になるよりも、大学院という人畜無害な場所に囲い込んで自分の二流性について自己納得させた方がいいというのは否定できない。そう見てみると案外、大学院重点化という政策は社会的合理性をもっているのかもしれない。
 しかし囲い込まれているうちに人畜無害どころか、はしにもぼうにもひっかからない、社会的には「使えない」人間になってしまうことも否定できない。うーんそういった意味では二流エリートは社会の犠牲者なのか?
 nosemさんとかがこのBlogを読まないことを期待する?