梅木達郎「支配なき公共性」を読む

okagou2005-10-14

 自分は昔ヘルダーリンの研究をしていたけど、梅木達郎先生の研究は大いに参考にさせていただいた。特に先生が翻訳なされた『崇高とは何か』なしに修士論文を書きあげることは不可能だっただろう。今年3月に先生は逝去なされたあとで出版された『支配なき公共性』を購入して読んだのだが、特に「崇高論をめぐって」という章を読んで目から鱗が落ちる思いがした。ヘルダーリンはカントを「ドイツにおけるモーセ」と言っていたが、この本を読んでその意味を少しは理解できたかもしれない。
 またこの本は公共性についても扱っている。最近は国益や公益の重要性が説かれているが、梅木先生はアーレントを援用してこういったものは個々の私的利益を合計しさえすれば公益という新たな質に変化すると勝手に決め込んでいる人たちの妄想に過ぎず、実際のところはある集団のエゴイズムであり、公共的ではないと批判する。国益もまたつまるところはある力を持った集団の特殊利害の体現であり、国家へと個人を吸収し同一化させようとする時点で、公共的ではない。それに対し真の公共性とはハーバーマスがいうような権力と対峙した市民の利害から発生した公共性ではなく、そういった特殊利害から隔絶した場所でのみ成立するものと説く。
 今の日本では少なくとも国益や公益が声高に語れることはあっても、公共性が語られることはほとんどない。特に小泉自民党を支持したフリーター、主婦たちはそうである。彼らは他者の存在を拒絶し、自分の利害に他者を回収し、そして改革を声高に唱えていても実際は私的利益のエゴイズムの体現である小泉政権に判断力を持つ個人としてではなく、思考を放棄したある一部分として回収されていったのである。梅木先生の本がこの暗い時代におけるひとつのかすかな、しかし強く輝く光たらんことを願うのみである。
 最後に先生の早すぎる死を悼むばかりである。